日本の美術学校の歴史(1870年〜1900年)


西暦 年号 出来事

中心人物

その他
1873年 明治6年 工部学校開校

明治政府が教師を呼ぶ

建築:コンドル(英) 鹿鳴館、ニコライ堂、三井倶楽部

明治政府が西洋に追いつくために、力をそそぐ。

明治政府による初めての大規模な公募展、文部省美術展覧会を開催。
文展、帝展、新文展、「日展」を経て、1958年に現在の改組「日展」になる。

主な旧派の作家
・高橋由一
・百武兼行
・国沢新九郎
・山本芳翆
・五姓田義松
・浅井忠
・小山正太郎
・松岡寿
・原田直次郎
・原撫松
1876年 明治9年 工部美術学校開校
(1882年 閉鎖)

明治政府がイタリアから教師を呼ぶ

絵画:フォンタネージ 洋画と邦画
彫刻:ラグーザ
建築:カペレッティ

1889年 明治22年 東京美術学校開校
(1887年設立)
現在の東京芸大美術学部

創設:岡倉天心
初代校長:浜尾新

フェノロサ 狩野芳崖,橋本雅邦ら狩野派を軸とする国粋派。
日本画、木彫、彫金、漆工のみ 西洋画と洋風彫塑の学科なし

1896年に西洋画科新設
主な新派の作家
・黒田清輝
・久米桂一郎
・藤島武二
・岡田三郎助
・長原孝太郎
・中村勝治郎
・湯浅一郎
・小林萬吾
・矢崎千代二
・白滝幾之助
・満谷国四郎
・和田英作
・中沢弘光
・山本森之助
・赤松麟作
外光派の明るい写実主義とフランス・アカデミズムの基礎技術を伝える

1889年 明治22年 明治美術会
1901年に解散
浅井忠・川村清雄・五姓田義松、山本芳翠
脂派・旧派と呼ばれる
天心・フェノロサの指導する東京美術学校の設立に対抗
1896年 明治29年 白馬会 黒田清輝、久米桂一郎、岡田三郎助、藤島武二 国粋主義・洋画排斥運動に抵抗。欧州から帰国した黒田・久米らを中心とした新思想派と小山正太郎らの既成勢力である旧思想派の対立したため、 明治美術会を退会し、結成。明治43年まで続く。
外光派・新派と呼ばれるほか、紫系の色の多用により,「紫派」とも。
1898年 明治31年 日本美術院(院展) 岡倉天心
横山大観、下村観山、菱田春草
日本画中心。東京美術学校の校長だったが、文部省から罷免された岡倉天心が中心。
朦朧体 没骨により空気や光線を表現する
第1回展で,大観の「屈原」・春草の「寒林」などが大きな反響を呼ぶ

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